『日本文明の謎を解く―21世紀を考えるヒント』
日経BPonlineの『養老孟司×隈研吾 「ともだおれ」思想が日本を救う』という対談の中で養老先生がお薦めの『日本文明の謎を解く―21世紀を考えるヒント』を読み終えることができた。
著者の竹村公太郎氏は旧建設省の河川局長だったキャリア技官で、この本は在任中のから業界紙の「建設オピニオン」に「島陶也」のペンネームで連載したものをまとめたものだ。
社会資本整備の重要性を歴史の中から考えようとした内容で、非常に面白かった。道路、水道、電力、治水、防災などの社会インフラがなければ、私たちは現在のような快適な生活が営めないわけで、そこから歴史を考えるという切り口は非常に新鮮だ。ただ、書名の「文明の謎を解く」ほどでもない。
一番面白かったのは、第1章の「新・江戸開府物語 なぜ家康は江戸にもどったか」で、面白いから連載時と順番を変えて一番に持ってきたのだろう。
秀吉によって、荒れ果てた湿地帯だった江戸に転封された家康が、今の東京の基盤となる江戸を作っていく過程が、土木技術者の目で解説されるとなるほどということになる。史学の研究者と全く違った視点で歴史を見ることの大切さが判る。
水道というインフラが整備されることで、日本の女性の寿命が男性と逆転したという分析、ピラミッドが一種の堤防ではないかという仮説なども実にダイナミックだろう。
組織の広報のあり方で重要となる情報開示の仕方などについても、筆者が長良川河口堰の反対運動で学んだ体験に基づく話が参考になる。
ただ、いくつかきたきつねと見解が異なって違和感を感じるところがあった。第一は、江戸時代に車両が使われなかったかということについて、筆者は日本人が牛馬を去勢するなどの家畜の扱いに慣れていなかったため、牛車を引く牛は暴走して危険だったからだとしているところだ。
本当に日本人は牛馬をコントロールできなかったのだろうか。江戸時代には牛や馬による耕起作業は行われていたし、人や荷物を馬の背に乗せて運ぶことは普通だった。牛や馬がいつも暴れていたら、人を乗せてはいられないだろう。
車両の発達を抑えたのは、徳川三代が江戸に攻め込まれることを恐れ、戦略物資を陸路運搬できないようにしたということも重要ではないか。そのために、大きな川には橋を架けさせなかったし、重要拠点には関所を設け、船の大きさにも制限をかけたのだろう。
第2は、ローマ帝国が衰退した原因を、水道管に鉛管を使ったために鉛中毒によるものとする点だ。これはおかしい、日本でも明治時代から水道に鉛管を使っていたはずで、きたきつねも子供の頃、掘り出された水道の鉛管を拾って屑屋に持って行って買って貰ったことがある。
調べてみると鉛管は明治31年の近代水道の開始と同時に給水管として採用され、平成6年度に全面使用禁止になるまで使われていたということで、日本人も鉛中毒で弱ってしまったのではないだろうか。
どうも河川分野の土木官僚だった著者は水道事業のことを知らなかったのだろう。
第3は、日本人の気質に関することで、タクシーの自動ドアや電動麻雀卓など開発できるのは、冬に定期的に閉じこもるからだというところだ。これは、たぶん異論を持つ人は多いと思う。雪に閉ざされて暮らす地域は、日本全国でも限られているし、手先の器用さは違う要因だろう。
中でも、縄文時代についての以下のような記述は間違っていると思う。
数千年前の縄文人は冬になると雪に閉じこめられた。人々はひたすら洞窟やマンモスの皮のテントで春を待った。
縄文時代は、暖候期だったはずで、現在よりも相当暖かだったはずだし、その時期にマンモスはいない。マンモスは、旧石器時代にいたけれど、2万年前に絶滅したと考えられているから、マンモスの皮のテントは無理だろう。
縄文人は、竪穴式住居で、今ほど快適ではないにしても、旧石器人よりも快適な暮らしをしていただろう。
おかしなところは別として、全体としては非常に興味深く、示唆に富んだ内容で、一読の価値は十分ある。
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