普通ということ
境内には同じ白桜だけれど、違う品種の桜があった。種類は判らない。
もう一つ赤い花の桜もあったけれど。これも品種名は判らない。
新潮社の「波」に高橋秀実さんの「なんとか言語学」が連載されているけれど、今月は「『普通』の体質」で、「普通」ということばについて論考されている。
「普通って何だ?」という問いかけをされると、ウッと詰まってしまう。
確かに「普通」ということばは、日常よく使うけれど、「普通」の基準を厳密に考えたことは無い。というか、考えると息苦しくなるような気がする。
結論は、
「普通」が「あまねく一般に通ずること」であるとするなら、「通貨」と呼ぶくらいで、お金こそ普通のものなのである。
お金は「普通の媒介」。お金はあまねく通じることで、価格として物事を均質化し、物事と物事を媒介する。お金は言葉と並んで「普通」の権化なのである。目に見えない「普通」が姿を現すのが言葉とお金。となると、言葉をお金に換えて生計を立ている私などは、あまねく広がる普通にダブルに使っているわけで、過剰なまでに普通。普通に普通どころか、普通が普通で普通に生きているのであり、子供達に説明するなら「普通すぎる人」なのである。
| 固定リンク
コメント