キリスト教と彼岸
朝日新聞(2012年12月25日夕刊)の文芸/批評欄で映画評論家の蓮實重彦氏(昭和13年生まれ)が「無声映画のスター・井上雪子さんを悼む」ということで追悼文を書いているが、最後がいけない。
その井上雪子さんが、さる11月19日に97歳の生涯を閉じられた。ご葬儀は親族だけと新聞にあったが、近所の教会での告別ミサに参列させていただき、12歳の時に他界された父上との彼岸での再会を心から祈った。塩田監督とお柩をかつぎながら、亡き井上さんとともに、日本のある時代をそっくり葬るような気がして、思わず涙が流れた。
この中にあるように、キリスト教徒の井上雪子さんが「彼岸」に行くのはおかしくないか。天国ではないのか。彼岸は、仏教の世界だろう。キリスト教徒にとっては、冒涜にならないのだろうか。
最近、いろいろな有名人が無くなって友人知人のコメントが申し合わせたように宗教に関係なく「天国で・・・」ということに不満を持っているが、これもひどい。新聞社の校閲者は、こんな間違いもわからないということだろうか。
先週土曜日の、TBSラジオで永六輔さんが、小沢昭一さんの死に触れて、天国ではなく彼岸か草葉の陰だとろうと言われていた。これも天国ということばを軽々しく使うことについての反論だろう。
映画「レ・ミザラブル」の全編を通じてキリスト教の神への信仰が通奏低音のように人々の生活の隅々にまで生きているのを見て、感心してしまったが、逆に自らの宗教的いい加減さを意識させられた。
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