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2013/09/16

言語を失うこと

先週金曜日の朝、車で移動中に文化放送の「武田鉄矢・今朝の三枚おろし」を聞いていて非常に気になったことがある。内容は、Podcastの9月16日分で聞くことができる。

元IBM社長の成毛眞氏の「日本人の9割に英語はいらない (祥伝社黄金文庫)」を読んでの話なのだけれど、成毛さんが「言語を失うことは文化を失うことだ」と書いていることについて、「判らない」と発言したことが気になった。

ユネスコでも「文字を持たず、記録もされていない言語が失われることで、人類は文化的豊かさを失うだけでなく、言語に内蔵されていた重要な先祖の知恵も失うことになる」という見解をだしているように、言語を失うことは重要な問題なのだ。

成毛さんは、アメリカの企業にいたからこそ、言語と文化の問題をしっかりと意識できているのだろう。それと対称に武田鉄矢は最近は英語で日記を書くほど英語に傾倒していて、ありがたがっているだけで、なんの問題意識もない。非常に失望してしまった。

アフリカ、インド、アメリカ大陸の植民地にされた国々は、民族固有言語を奪われたことで、民族固有の文化を失ってきた。植民地政策は、まず言語を奪うことから始まり、宗主国の言語を強要し、イエズス会のように民俗固有の宗教も奪ってしまうのだ。言語が失われることは、それによって担われてきた知識も失われるということなのだ。

日本も、第二次世界大戦以前に朝鮮半島、台湾、インドネシアなどを植民地にしたときに、日本国内と同じ教科書を使い日本語化教育をしていた。

日本国内でも、北海道のアイヌ民族固有の言語であるアイヌ語は失われつつあるし、各地の方言も標準語化によって急速に失われつつある。

植民地ではなくても、韓国のように漢字を排除することで、漢字を読めない世代が出現すると、民族が蓄積してきた書籍や資料を伝えていくことが難しくなる。中国の簡体字も同じような問題をはらんでいる。

今、政府が参加を進めているTPPについても、共通言語を米語にされる可能性もあり、非常に問題がある。小学校教育での英語の必修かも、グローバル化に対応するためと政府はいっているようだけれど、日本語もきちんと教育できていない中での英語教育は何か別の目的があるのではないかと疑っている。

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コメント

きたきつねさん、

”歴史の終わり”イコール”グローバル化の始まり”だったわけですね。
昔、大学の文化人類学の先生の御相伴にあずかりながら聞いたアフリカの創世神話や後背地論が懐かしく、また今、プリミティブなストーリーを人生の糧として必要だと思うようになりました。

投稿: かんてつ | 2013/09/17 14:57

かんてつさん

いつの時代にも言語の喪失があったのではと思いますが、大航海時代に始まる植民地が大規模になったのでしょう。

日本は、漢字のような必要なものは取り込んで、かな、カタカナを創り自分の言語の根幹は守っているように感じます。

投稿: きたきつね | 2013/09/17 21:47

英語圏に行けば、片言の英語でも通じる。暮らしてゆける。
完全な英語でなくても、英語環境がととのっているから通用するのである。
英語環境がととのっている環境で生活していれば、そのうちに、英語も上達する。

我が国においては、どんなに英語が堪能であっても就職先に困る。
それは、人々が英語を使わないからである。これでは、暮らしそのものが成り立たない。

日本の学校で6年間英語の授業を受けてもまず話せるようにならないのは、英語環境が整わないからである。
一歩学校の外に出ると英語を使わないのでは、せっかく習った英語も錆ついてしまう。
日々の学習努力も賽の河原の石積みとなっている。

日本の学生のために英語環境を整えることが、語学力を増すことにつながると考えられる。
それには、英語を我が国の第二公用語にするのがよい。
国民も政治指導者も、英語の使用を日本人のあるべき姿と考えることが大切である。

国際社会において、我が国を代表する政治家にも英語の堪能さが見られない。
日本語のみを使用する社会において、実用にならない言語の学習は空しいばかりである。それにもかかわらず、我が国においては英語教育に名を借りた序列争いばかりが激しく行われている。
英語の学習を民間に奨励するだけでは充分ではなく、英語を習得したことに対する国家の強力な報奨(incentive)が必要であります。
英語を実用の言語とする政治指導者のさきを見据えた努力が大切です。
たとえば、公務員採用試験に英語の能力にすぐれた人物に優遇処置を施すなどの法的裏づけなどが効果的でありましょう。

英米人には、手先・目先の事柄に神経を集中する特技は得られないようである。かれ等は、生涯、歌詠みにはなれないでしょう。
日本人には、英語を使って考えることはきわめて難しい。しかし、これは不可能ではない。全員ではないが、知識人には為せばなる学習であると私は考えています。
わが国民の作る細工物は出来栄えが良い。なおその上、英米流の哲学にも良き理解を示す民族となれば、未来の日本人は鬼に金棒ということになるでしょう。
だから、英語を我が国の第二の公用語とすることには大きな意義があります。実現の暁には、我が国民のみならず、世界の人々に対しても大きな未来が開けることと考えられます。

一見我が国は教育大国を目指しているようであるが、大人の教育はない。つまり、子供が大人になるための教育はない。
我が国においては、教育といえば子供の教育のことを指している。目先・手先のことのみを述べる人は、子供のようである。
大人には考える教育が必要です。一人一人に哲学が必要です。
現実と非現実の間に区別を置くことなく語る人の内容には意味がない。だから、日本の知識人には価値がない。

「感情的にならず、理性的になれ」と国民に訴える指導者がいない。
「国民の感情に反する、、、、、」と言うのでは、主張の論拠にならないが、それのみを言う。
感性 (現実) あって理性 (非現実) なし。我が国は、一億総歌詠みの国にとどまっている。

大学生は入学しても、キャンパスで4年間遊んで過ごすことになる。
無哲学・能天気の大学生は、平和ボケ・太平の眠りの中にいる。
「入学を易しく、卒業を難しく」というような教育方針は現状を観察すれば空しい限りである。

日本人は、国連中心主義が好きなようだ。
国連の議場で世界の人々を説得するためには、自己の言葉が冴えわたる必要がある。
議論のできない人があえて国連中心主義を唱えるのは、自己の他力本願を表明するための手段ということになるのであろうか。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

投稿: noga | 2013/09/29 01:33

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