里山資本主義−日本経済は「安心の原理」で動く
「里山資本主義−日本経済は「安心の原理」で動く」を随分前に読了していたが、なかなかレビューする気にならなかった。部分的にはきたきつねの考えてきたことと同じで同感できるのだけれど、何か違うという感じがしてしかたがないのだ。
街村起こし、森林資源のエネルギー利用などについては、異論がないのだけれど、「里山資本主義」という言葉が受け入れることができない。
著者の藻谷氏は、里山資本主義ということばを、里山が資本になるというイメージで使っているのではないかと思う。里山や資本主義をイメージで使ってほしくない。
資本主義は、搾取の構造で成り立っているフィクションで、単純化と収奪がキーワードになる。
資本主義は、ヨーロッパの諸国が植民地から奴隷とタダのような資源を収奪することで、利潤を得て発展した中で生まれた体制で、次々と安い資源と労働力を求めながら発展してきた。
資本主義によって収奪された旧植民地の現状をみると明らかだろう。多様な文化の破壊と資源の収奪にさらされて、独立後もインフラが整備されていないし、民族紛争など治安の問題が残っている。
また、新興国・途上国が成長してきて安い資源と労働力という落差の構造がなくなってきたので、もの作りから金融の世界に資本主義が移ってきている。
経済成長などという、無限に成長し続けるという虚構が成立しなければ資本主義は崩壊することになる。そのためには、収奪の対象となる人口を増やさなければならないという虚構が必要になる。しかし、限られた地球環境、食料、資源とエネルギーの浪費の構造で人口が増えることは破綻しかないだろう。
里山主義は、資源の浪費を避け、持続的に利用していくということで、資本主義とはパラダイムが真反対なのだ。人類の歴史の中で99.999%の時間は自然と共生した持続的社会が続いていたので、資本主義の時代はほんの一瞬の出来事でしかない。
資本主義が崩壊しても里山主義は残るだろう。
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