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2021/06/19

古事記

1月の入院中に福永武彦さんの現代語訳の古事記を読んでいた。日本の歴史の中で文字で読める最初のものだということで一度は読んでみようと読んでから、何度目かになる。内容については多くの碩学が研究していてきたきつねの踏み込む余地はないから、古代の雰囲気を感じるために興味本位で読んでいる。

古事記は、文字のない時代から口伝えで伝わってきた天皇と各地の豪族達の存在の正当性を証明するためのものがたりで、都合の良いように創られていると思うけれど、なんとなく本当のことも混じっているようだという印象がする。

古代には天皇家のイベントで古事記の内容を語り部が多くの人々を前に朗誦したのだろうか。

原文は読んでもさっぱり分からないから現代語訳はありがたい。福武さんの訳は評判がいいようだ。

主役は変わるけれど同じ話が繰り返し続き、所々にエピソードが人の名前が当時の呼び方なのでなかなか頭に入ってこない。

天皇を始めとして出現する人々の名前は、現在知られている神武、綏靖といった名前ではなく、当時呼ばれていた名前なのでよくわからない。

東京国立博物館の考古室に展示されている江田船山古墳出土の国宝の鉄剣に象嵌された「獲□□□鹵大王」は、古事記では「大長谷若建命」と呼ばれた雄略天皇ではないかというのを思い出した。

真面目に読むと気になるところが沢山ある。例えば神が国の基になる島をつくったけれど、旧約聖書のように人を作ったことになっていない。

伊弉諾、伊弉波が子供として神々を生んでいって、神の子孫達は、各地に住む人の娘と子供を作っていくけれど海の中から生まれた島に人々はどこから湧いてでたのだろうか。

天皇は亡くなる年齢がまちまちなのは分かるけれど、神だから仕方がないのかもしれないけれど百数十歳まで死ななかったり、一代に多分二人か三人が隠れているのかもしれない。


天皇が宮を作る場所が一代ごとに違うのはどんな意味があるのか興味がある。絶対裏に何かが隠れているような気がする。

そういえば、よく鳥を見に行く稲敷市に景行天皇行在所跡というのがあったのを思い出した。

統治者が自分の地位を正当化する目的の物語なので、全てが本当のこととは思えないが、中には真実が隠されていると思うし、それが時代時代の色々な人々の興味を引いてきたのだと思う。

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