竹村公太郎「日本史の謎は『地形』で解ける」
6月から月刊誌「ちくま」で連載が始まった吉見俊哉の「敗者としての東京ー巨大都市の『隠れた地層』を読む」の7月号に縄文時代からの東京が地形と繋がって人が生活していたという話題が取り上げられていた。
そういえばということで竹村公太郎「日本史の謎は『地形』で解ける」を引っ張り出してきた。
歴史は人文社会学的な切り口ではなく地形と気象の制約を受けて地域と歴史が作られるというアプローチで鎌倉から江戸時代の出来事について考察している。
ちょっと強引な部分もあるけれど、地形という動かないものをベースにしているのでそれなりの説得力はある。
信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにしたかというのも岐阜から京都に向かう途中の街道が延暦寺の前にるので安全に通るためには破壊する戦略的な意味があったというのはうなずける。
頼朝が鎌倉に幕府を構えたのは、鎌倉の地形が外部からの攻撃を防ぐのに適した場所だったという。地形的な意味については最近では定説になっているようだ。
元寇が失敗した理由も博多湾の底質の問題と結びつけているのも興味深い。
徳川家康が秀吉に荒れ果てた湿地帯の広がる江戸への移封を命じられてそれに従って、江戸を巨大な都市に作り上げた経過についてもなるほどと思うところがある。
吉見俊哉の「敗者としての東京」を読むと江戸の街が開かれた場所が何もない湿地としてだけ捉えるのは間違いだと思う。
縄文、弥生から比較的開けたエリアで、奈良平安時代には東北支配の拠点でもあったことは古い浅草寺、氷川神社などの神社があること、秩父や栃木の鉱山との関係や舟運の港としての役割があったのを忘れてはいけないだろう。
地形的なもっと深い意味があるような気がしてきた。ただ、そのような地形的がもつ意味を家康が俯瞰できたということだろう。
それとついでだが、竹村さんは利根川開削や運河の造成など大規模な事業への伊奈備前守忠次・忠治親子の活躍について触れていないのが不思議でしょうがない。
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