つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふ今日とは思はざりしを 在原業平
今日は「砂漠化および干ばつと闘う世界デー」、「沖縄返還協定調印の日」、「おまわりさんの日」。
在宅でウロウロしていたので写真がないので、東京国立博物館の宮城県大崎市の田尻蕪栗で出土した重要文化財の縄文晩期の遮光器土偶。
昨日の朝日新聞の折々のことばを見ていて前から考えていたことを整理してみた。
新聞のお悔やみ欄に同年代のひとが掲載されることが多くなってきたような気がしている。
それと最近立て続けに同年代の友人が二人続けて亡くなったのもあって、いつ死んでも何があってもおかしくない年齢圏に入ってきているのを感じる。
健康寿命も残りどれくらいあるのか、もちろん寿命がどれくらいあるのかわからないけれど、生物的には遺伝子を残すことができたし、自己満足だけれど熱中できる好きなことがあって、食べる心配をせずに過ごせているのは幸せなのかもしれない。
どこで読んだのか分からないけれど、「死は最後ではなく、中断だ」ということばが気になっている。寿命が分かっていないから終わりが明確になってはいけれど、死はいつか必ず来る。
普通に生活していて、明日は何をしよう、いつ何をしようとか旅行に行こうと思っているけれど、死は、ある時突然訪れるのだから確かに中断ということになる。
病気で余命宣告されても、その通りにはならないし、突然死や事故などはもっと予測できない。老衰による自然死の場合だって、本人にはいつ死ぬかなど分かりはしないだろう。
谷川俊太郎ではないけれど朝目が醒めると今日も生きていたという感じがよく分かるようになってきた。
目が醒めて生きていることが分かったら、今日も一日自分のできることを精一杯することにしようと思う。
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