無宗教ということ
きたきつねは以前から無宗教ということを標榜してきている。もちろん自分の葬儀は宗教色のないものを希望している。
しかし、これまでの行動を考えてみると、神社やお寺では参拝しているし、仏教に関する書籍を読んだり、神社の縁起を調べたり、外国の宗教についてしていて概要を知ったしていて、宗教を全く無視しているわけではない。
また、多様な宗教の葬儀に参列し、それぞれの宗教のしきたりに合わせてお参りすることを拒否することはない。
無宗教と言いながら、初詣、七五三参り、葬式、結婚式、クリスマス、ハロウィンなど色々な宗教色のある行事を不思議に思わずに行っている。
きたきつねの場合、既存の宗教や宗教団体の信者ではないというだけのことのようだ。
日本人の多くはきたきつねのような状況で、自分は無宗教と考えているのではなかろうか。
海外、特に一神教の信者たちからみると、無宗教というのはもっと厳密なもののようで、無宗教というと非常に驚かれるという話は聞いたことがある。
多分、きたきつねも含め多くの日本人は、八百万の神に代表されるような多神教を信じているのかもしれない。
だから、仏教が伝来しても、キリスト教が入ってきても全て八百万の神の中のひとつという認識のだろう。
明治維新の国家神道を進めるために起こった廃仏毀釈の前には、お寺と神社は一体となっていたことも根底にあるだろう。
葬式は仏教で、結婚式は神道やキリスト教、初詣はお寺と神社、占いは道教といった人生における宗教はゴチャ混ぜだし、仏式の葬式で弔辞で浄土ではなく天国でお休みくださいみたいなことが普通なところや、お寺にクリスマスツリーが飾られていたりしていたも違和感を感じないことのベースに多神教があるのではないか。
八百万の神といっても神道は、人や動物が神様になって神社に祀られたり、今は二礼二拍手一礼の参拝の作法も無理やり統一しているようだし、厳密な教義がないような感じがしないでもない。
無宗教ではなく、あいまい教の信者ということでいいのかもしれない。あいまい教なので、自由自在で今まででいくことにしよう。
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