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2026/03/12

日本の神様のいい加減さ

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今日は「サンデーホリデーの日」、「パンの日」、「奈良・東大寺二月堂お水取り」、「サイフの日」。

ハクモクレンの花が咲き始めると卒業式シーズンが始まる。牛久市では、今週の10日火曜日に中学校の、来週の18日水曜日に小学校の卒業式がある。

来年市政に移行する予定だった阿見町が、国勢調査で基準の5万人に311人足りないので市政に移行できないという。次回の国勢調査を待つことになるらしい。

3月7日日曜日夜のNHKテレビ「知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!?」で「なぜ“神さま 仏さま”なのか」を見たのだけれど、ちょっとポイントが違うような気がしたけれど、日本の神様のいい加減さが分かる内容になっていた。

日本人の宗教観についてブログで過去に何度か書いているのだけれど日本の神様はキリスト教や仏教、イスラム教などと違い教義をもたないといういい加減といえばいいほどで宗教と呼べないような存在なのだ。

日本の神様は、参拝に来るひとに何もしてくれない変わりに、義務を課すことがない。お参りすることで、自分で自分を安心させる効果だけで、御利益は、ひとが勝手に思いついてこじつけているに過ぎないので、実現しなくても時に苦情を言いに来ないということになる。

明治維新後に政府が国家神道ということで、神社を制度化してしまったけれど、制度は作ったけれど教義は作らなかった。参拝方法も、バラバラだったままなので、二礼二拍手一礼とか手水の作法なども後付なのだ。

平安時代後期に日本の神々は教義のある仏教の仏が本来の姿であるとする本地垂迹説がでてきたのはひとつの流れで、それが鎌倉後期に逆に「神が本、仏が跡」とする神本仏迹説がでてきたりして、神と仏を同等に崇拝する「神仏習合」の文化が定着してきた。

なんだって日本は八百万の神がいて、仏教の仏様もキリスト教の神様もヒンズー教の神様も全部仲間で受け入れてしまうようになってしまったと考えてもいいかもしれない。

日本の神様と葬式についてはまとめてみたいと思っている。

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